植物研究の現場で「ブラジキニン」という単語が出てくると、多くは“植物がブラジキニンを持つ”という意味ではなく、「動物で知られたブラジキニン様のペプチドシグナル」という考え方を、植物の傷害応答・免疫研究にたとえて説明する文脈で使われます。
実際、植物では動物のカリクレイン‐キニン系(ブラジキニン産生系)に相当する仕組みがそのまま見つかっているわけではなく、植物側は植物側のペプチド(例:システミン)と脂質シグナル(例:ジャスモン酸)を中心に、別系統の進化をしてきたと考えるのが自然です。
農業従事者の視点で重要なのは、「名称が似ているか」ではなく、①傷害が起点、②信号が増幅され、③離れた部位へ波及し、④防御遺伝子が上がる、という“動物の炎症に似た構図”が植物でも成立している点です(この対応関係を押さえると、論文や資材説明の読み解きが速くなります)。
ここから先は、植物側で研究が厚い「システミン」「ジャスモン酸」「プロテアーゼインヒビター」を軸に、ブラジキニン的な“増幅型の傷害シグナル”として理解していきます。
トマトやジャガイモでは、害虫の食害や機械的損傷によって、プロテアーゼインヒビビター(PIs)が合成されることが古くから知られており、その誘導因子探索の中で、18アミノ酸からなるペプチド「システミン」が単離されました。システミンは極めて低濃度でPI遺伝子の発現を誘導しうることが示され、傷害応答の初期シグナルとして位置づけられます。
さらに重要なのは、システミンが師管を通って植物体内を移動し得ること、そして結果として“傷害部位だけでなく離れた葉でも”防御反応が誘導されるという「全身性(システミック)」の考え方です。これは動物で言うところの局所の刺激が全身の炎症反応へ波及する構図に近く、ブラジキニンを連想させる理由の1つになります。
一方で、システミン単独で完結するのではなく、脂質由来の植物ホルモンであるジャスモン酸(JA)やジャスモン酸メチル(Me-JA)が同じ防御遺伝子群を強く動かすことも整理されており、食害・損傷によりJA/Me-JAが増えると、未処理葉でもPIが誘導されることが示されています。加えてMe-JAは揮発性で、空気を介して同一株の別組織や近傍個体へも影響し得る点が、現場の害虫管理(圃場内の“情報伝播”)を考えるうえで面白い論点です。
農業的に言えば、ここでの要点は「ペプチド(システミン)→脂質シグナル(JA/Me-JA)→防御遺伝子(PIなど)」の鎖が、作物の“守り”の中枢にあることです。
(システミンの単離・18アミノ酸配列、師管移動、PI誘導、JA/Me-JAの位置づけは、植物防疫の解説にまとまっています)
システミンとジャスモン酸の基礎(配列・移動・PI誘導・JA経路)
http://jppa.or.jp/archive/pdf/52_05_21.pdf
プロテアーゼインヒビター(PIs)は、植食性昆虫の消化器官に作用して消化能を落とし、結果として昆虫を弱らせることで被害拡大を抑える“防衛物質”として説明されています。農業現場では、PIsという語は資材ラベルに直接出ることは多くないものの、「食害後に作物が硬くなる」「次の世代の食害が伸びにくい」といった現象の背景に、この種の誘導防御が関与する可能性があります。
ただし、誘導防御は万能ではありません。資料では、サリチル酸がリノレン酸からJAへの経路を阻害し得ること、さらにJAによるPI遺伝子活性化も阻害し得る可能性が示され、病原体応答(サリチル酸系)と食害応答(JA系)が単純に足し算ではない点が示唆されています。現場でも「病害が出ている時期に、害虫誘導の防御が思ったほど立ち上がらない」など、複合ストレスで応答がズレることは体感されがちで、研究知見はその説明仮説になります。
したがって運用上は、害虫防除を“殺虫だけ”で完結させず、作物が持つ誘導防御のスイッチ(JA系)をどの局面で活かすか、病害側のシグナル(サリチル酸系)と競合しない設計にするか、といった発想が重要になります。
システミンが「18アミノ酸ペプチド」である一方、植物ではペプチドが“そのまま”働くとは限らず、翻訳後修飾(糖鎖付加など)が活性を左右する例が複数あります。特にナス科で同定されたhydroxyproline-rich glycopeptide systemin(HypSys)は、ヒドロキシプロリン(Hyp)残基を含む短いペプチドに糖鎖修飾が入った「グリコペプチド」として整理され、傷害応答遺伝子群の発現誘導に関与すると説明されています。
面白いのは、糖鎖が“飾り”ではなく、糖鎖のない合成ペプチドでは活性が大きく下がると記述されている点です。現場で「同じようなペプチド資材(あるいは誘導物質)でも効き方が違う」ように見える場合、分子の安定性や受容体結合だけでなく、こうした修飾の有無が効力の差に直結しうる、というのが研究側の示す世界観です。
さらに、植物の分泌型ペプチドは、シグナル配列→分泌→プロセシング→成熟ペプチド、という工程を取り、短鎖化や修飾を経て初めて機能するという“作り込み”があることも整理されています。農業的には、作物の栄養状態・ストレス状態がこの成熟過程に影響すると、防御誘導の立ち上がりが変わる可能性があり、単純な薬効試験だけでは見えない差が出る余地があります。
(HypSysを含むグリコペプチドホルモン、翻訳後修飾、糖鎖が活性に重要である点は、生化学の解説にまとまっています)
HypSys(グリコペプチド)と翻訳後修飾(糖鎖・成熟ペプチド)の要点
https://www.jbsoc.or.jp/seika/wp-content/uploads/2013/10/82-06-11.pdf
ここは検索上位の“まとめ記事”では薄くなりがちな、現場寄りの設計論です。結論から言うと、誘導防御は「効いたら得」ではなく、「効いた結果として、どこにコストが出るか」を同時に測らないと、導入判断を誤ります。システミン‐JA系は防御遺伝子(PIsなど)を上げる一方、植物ホルモンの文脈では、JAが生育抑制や資源配分の切り替えに関わることが知られており、圃場での“守りの強化”が“伸びの鈍化”として現れる可能性があります。
そこで、農業従事者向けの試験としては、次のように「防除指標」と「生育・品質指標」を同じ区で同時に取るのが現実的です。
・🪲 防除指標:食害痕面積、加害虫数、次世代発生、収穫物の被害率
・🌱 生育指標:草丈、葉面積、根量、着果数、肥大速度
・🍅 品質指標:糖度、酸度、硬度、日持ち、規格外率
・🧾 収量指標:可販収量、秀品率、ロス率
さらに“意外に効く”設計として、同一圃場内でストレスが偏る場所(風当たり、乾燥、病害多発地点)をあえてサンプリングに入れることです。誘導防御はストレス履歴で反応閾値が変わり得るため、均一な試験区だけだと、現場導入後に再現性が落ちることがあります。
また、サリチル酸系とJA系の競合が示唆されている点を踏まえると、病害が立ち上がっているタイミング(サリチル酸が上がりやすい局面)で“JA系の誘導資材”を入れても期待通りにならない可能性があります。これは防除暦の組み方(病害優先か害虫優先か)に直結するため、発生状況の記録と紐づけて評価するのが安全です。
最後に、現場へ落とすための判断基準を、あえて短く提示します。
✅ 「誘導防御を狙う」価値が高い場面
・化学防除の間隔を少しでも延ばしたい(回数制限・抵抗性回避)
・局所防除で取り切れない散発的食害が続く
・周辺雑草や隣接圃場からの飛び込みが多い
⚠️ 注意が必要な場面
・病害が優勢で、サリチル酸系の反応が強い時期
・草勢が弱く、これ以上の生育抑制が収量に直結する時期
・高温・乾燥など、すでにストレス過多で“防御に振る余力”が少ない時期
このように、ブラジキニンを起点に「増幅型の傷害シグナル」という共通構図を押さえ、植物ではシステミンとジャスモン酸が中核であること、さらに糖鎖修飾を伴うHypSysのような“効き目の作り込み”が存在することまで理解すると、研究と圃場の距離が一気に縮まります。