農業に従事される皆様にとって、「ベータ・セクレターゼ(BACE1)」という言葉はあまり馴染みがないかもしれません。しかし、これからの「売れる作物作り」や「高付加価値化」を考える上で、このキーワードは非常に重要な意味を持っています。まずは、この酵素が一体何なのか、なぜ世界中で注目されているのかを紐解いていきましょう。
ベータ・セクレターゼは、私たちの脳内で働くタンパク質分解酵素の一種です。この酵素が注目される最大の理由は、国民病とも言える「アルツハイマー型認知症」の発症メカニズムに深く関わっているからです。アルツハイマー病の脳内では、「アミロイドベータ(Aβ)」という老廃物が蓄積し、老人斑(シミ)を形成することが知られています。このアミロイドベータは、元となるタンパク質(APP)がハサミのような役割を持つ酵素によって切断されることで生まれます。この「最初のひと太刀」を入れるハサミこそが、ベータ・セクレターゼなのです。
つまり、このベータ・セクレターゼの働きが活発すぎると、アミロイドベータが過剰に作られ、脳内にゴミが溜まりやすくなってしまうというわけです。逆に言えば、この酵素の働きを適度に抑える(阻害する)ことができれば、アルツハイマー病の予防や進行抑制につながる可能性があるとして、医学・薬学の分野で長年研究が続けられています。
では、なぜこれが農業と関係するのでしょうか?実は、この「ベータ・セクレターゼの働きを抑える成分」は、私たちが普段育てている植物の中に数多く存在していることが分かってきました。化学合成された薬ではなく、毎日の食事から摂取できる農産物に認知症予防の機能があれば、それは消費者にとって極めて大きな魅力となります。
特に、植物が自身の身を守るために作り出す「二次代謝産物(ポリフェノールやテルペノイドなど)」に、強力なベータ・セクレターゼ阻害作用が含まれているケースが多々あります。つまり、農作物の「機能性」を科学的な視点で見直すことで、これまでは見過ごされていた品種や部位が、突然「ダイヤの原石」に変わる可能性があるのです。
理化学研究所のプレスリリースでは、アミロイドベータ生成のメカニズムと酵素の関係が図解されています。
理化学研究所:アルツハイマー病の根本的な治療薬をつくる(PDF)
前項で触れたように、植物由来の成分にはベータ・セクレターゼ阻害作用を持つものが数多く報告されています。これは、植物が外敵や環境ストレスから身を守るために蓄えている成分が、偶然にも人間の脳内酵素に対して作用するためだと考えられています。ここでは、具体的にどのような植物や成分が注目されているのかを見ていきましょう。
最も有名な成分の一つが、緑茶に含まれるカテキン類です。特にエピガロカテキンガレート(EGCG)などは、高い阻害活性を示すことが研究で明らかになっています。しかし、お茶だけではありません。スパイスやハーブとして利用される植物にも、驚くべきパワーが秘められています。
例えば、「カレーリーフ(オオバゲッキツ)」をご存知でしょうか?カレーの香付けに使われるこの葉から抽出された成分(グリコスマルビンなど)や、精油成分であるカリオフィレンには、強力なベータ・セクレターゼ阻害活性があることが特許情報などでも示されています。他にも、ウコン(ターメリック)、コショウ、ゴマなどの抽出物にも同様の活性が見出されています。これらは、鳥獣害対策やコンパニオンプランツとして畑の隅に植えられていることもあるかもしれませんが、実はそれ自体が非常に高い機能性を持った「薬用作物」としてのポテンシャルを秘めているのです。
参考)301 Moved Permanently
また、植物に含まれるポリフェノール全般が、この酵素阻害に関与しているケースが多いです。ブドウやベリー類に含まれるレスベラトロールやアントシアニンも、脳の健康を守る成分として知られています。農業従事者としては、単に「甘い」「形が良い」だけでなく、「ポリフェノール含有量が高い」という育種や栽培管理が、これからの差別化戦略として有効であることを示唆しています。
既存の作物でも、品種によって成分含有量は大きく異なります。例えば、同じサツマイモでも紫芋の方がアントシアニンが多く、抗酸化作用とともに酵素阻害への期待が高まります。自分の育てている作物が、実は「対アルツハイマー」の切り札になる成分を含んでいないか、成分分析などを通じて再評価してみるのも面白いでしょう。
各種スパイスやハーブ抽出物のベータ・セクレターゼ阻害活性に関する詳細なデータが含まれています。
日本の農業、特に稲作農家の皆様にとって朗報と言えるのが、「米ぬか」の持つ可能性です。精米過程で大量に排出され、多くは肥料や飼料、あるいは廃棄物として処理されがちな米ぬかですが、実はここにはベータ・セクレターゼを強力に阻害する成分が含まれています。
その主役の一つが「フェルラ酸」や「フィチン酸」といった成分です。特にフィチン酸は、金属イオンをキレートする作用などが知られていますが、近年の研究でベータ・セクレターゼ(BACE1)の活性を特異的に阻害する可能性が示唆されています。農研機構などの研究プロジェクトにおいても、米ぬか等の国産農産物から抗認知症機能を持つ素材を探索する試みが行われており、その中で米ぬかは有望な素材としてリストアップされています。
参考)https://www.naro.go.jp/laboratory/brain/sip/sip1_topix_combine.pdf
これは、単に「お米を食べる」だけでなく、米ぬかを利用した加工品やサプリメント原料としての需要を掘り起こせることを意味しています。
また、米ぬかに含まれる成分は、熱に強いものも多いため、加工食品への応用がしやすいという利点があります。通常のお米として販売する際の価格競争に疲弊している場合、こうした「機能性成分の抽出源」としての稲作にシフトする、あるいは兼業することで、経営の多角化を図ることができます。
さらに、最近の技術では「発酵」を組み合わせることで、これらの機能性成分をより吸収しやすい形に変化させたり、含有量を増幅させたりすることも可能です。漬物文化のある日本において、米ぬか発酵食品は受け入れられやすい土壌があります。「昔ながらの知恵」と「最新の酵素科学」が、米ぬかを通じて結びついているのです。
農林水産省によるプロジェクト研究の結果報告で、米ぬかを含む農産物の機能性評価について言及されています。
ここまでの話を踏まえ、現場の農業経営にどう落とし込むかを考えましょう。ベータ・セクレターゼ抑制というキーワードは、最終的に「高付加価値化」と「ブランディング」に直結します。
現代の消費者は、食品に対して「空腹を満たす」以上の価値を求めています。特に、超高齢社会を迎えた日本では、「認知症予防」「脳の健康」というテーマは、シニア層だけでなく、その子供世代(40〜50代)にとっても切実な関心事です。ここに、農業ビジネスの大きなチャンスがあります。
例えば、直売所やECサイトで野菜を販売する際、単に「新鮮な野菜」と書くのと、「研究で注目の酵素阻害成分を含むとされる品種です(※薬機法に配慮した表現が必要)」とPOPにあるのとでは、手に取る顧客層が変わってきます。もちろん、法律(薬機法や景品表示法)の規制があるため、「アルツハイマーが治る」とは書けません。しかし、「機能性表示食品」の届出を行ったり、成分含有量を明示したりすることで、合法的にその価値を伝えることは可能です。
高付加価値化へのステップ:
また、こうした機能性成分は、見栄えの悪い「規格外品」にも同様に含まれています。むしろ、過酷な環境で育った小ぶりな野菜のほうが、成分が凝縮されている場合すらあります。ベータ・セクレターゼ抑制という切り口を持てば、これまで廃棄していた規格外品を、高価な「健康食品原料」として生まれ変わらせることができるかもしれません。加工用トマトや茶葉の茎など、未利用資源の活用にも目を向けてみましょう。
最後に、他ではあまり語られない独自の視点として、「栽培環境によるベータ・セクレターゼ阻害能のコントロール」について触れたいと思います。実は、植物に含まれる酵素阻害成分(二次代謝産物)の量は、栽培時の「ストレス」によって大きく変動することが分かっています。
植物は、強い紫外線、乾燥、塩分、虫害などのストレスにさらされると、生体防御反応としてポリフェノールやアルカロイドなどの生成を活発化させます。これを農業に応用するのです。
つまり、「甘やかして育てる」のではなく、意図的に「厳しく育てる」ことで、アルツハイマーの原因物質であるアミロイドベータに対抗しうる、強い成分を持った作物が生まれるのです。これは、慣行農法とは逆行する部分もありますが、「メディカル・アグリカルチャー(医農連携)」という新しい分野では常識となりつつあります。
アミロイドベータの蓄積を防ぐ成分を、農家がその手で「作り出す」ことができる。肥料や農薬のコントロールだけでなく、環境ストレスを制御するという高度な技術が、これからの機能性作物栽培の鍵を握るでしょう。あなたの畑のその厳しい環境こそが、実は最強の機能性作物を育てる揺りかごなのかもしれません。
植物がストレスに応答して生成する成分が、医薬品の種(シーズ)になるという視点が解説されています。
東京農工大学:昆虫と植物の相互作用と医薬品シーズ(研究者プロフィール)